「分からない」と不安/Not Knowing and Anxiety
瑞岳院の森山老師と連絡が取れなくなってから半年が経つ。現在でも何が起こったのか全く分からない。このように「分からない」ままでいることは結構つらい。「分からない」状況でも一歩を踏み出さなければ、捜索が進まないのでやっているが、それでも今後のことを思うと不安になる。 「分からない」のは森山老師の行方だけでは無い。この世の中、全ての物事がそうだ。社会生活を営む上で確実なのは、将来皆死ぬということぐらいではないか。科学的な法則であっても将来は変わるかも知れない。しかし、これが現実であり、この世界で生きていくには「分からない」状況で可能性の高い状況を想像し、それを手がかりに行動するしかないのであろう。 問題なのは「分からない」ことが「不安」に直結することだ。 人は「分からない」ことや理解できないことがあると、そのまま受け入れることはできない。受け入れるために、何とかして自分自身が理解できるように納得できるように、「分からない」ことを解釈する。ある人は収集した情報を根拠に、ある人は合理的な考えに従い、ある人は感情的に、ある人は宗教的に。「分からない」ことを自分なりに「分かり」、その解釈や理解を信じこむことで安心したり、あるいは、自分自身が信じた悲観的な解釈によって、さらに不安になるのである。 ただ多くの場合、本当に納得し安心できる解釈を見つけられなかったり、まだ現実とはなっていない悲観的な解釈に恐れおののくのではないだろうか。一時的には納得しても時間が経つと納得できなくなったり、他者から否定されたり、考えていなかった事が起きて、結局は不安に逆戻りとなることも多いはずだ。 「分からない」と不安を直結させないためには、物事というものは根本的に「分からない」、とアタマと心で徹底的に理解しなければならない。どんなに確からしい解釈であっても、それは現実には起きていないことであり、違うことが起きる可能性もあることを常に考えておこなければならない。そして仏教では、さらにその上で、このような考え方、理解も自分自身の解釈の一つだと理解し、さらにその上でそんな理解も自分自身の解釈だと理解し、さらにその上でそんな理解も。。。 そうこうしているうち、何とかこのループから外に出られるように、期待をせずに、これを続けて行く。 残念ながら私自身はその心境には達しておらず、本当のところ...