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われは菩薩たり / I am a Bodhisattva

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文殊菩薩 / Manjusuri 我は菩薩たり。衆生のために益利(えきり)せんと欲す。(大智度論巻十四) 内山興正老師はその著作「進みと安らい」で、この生き方こそが人生の方向とすべきものだとしている。この「願生の菩薩」としての生き方(Living in Vows) が仏教徒の目指す方向であり、この生き方の中にのみ「進みと安らい」が得られると述べている。 ここで菩薩(Bodhisattva)とは、観世音菩薩、文殊菩薩、地蔵菩薩等だけを指すのではなく、元来、大いなる慈悲心に導かれて、世の中全てのもののために仏道を成就しようとする全ての修行者を指す。特に大乗仏教の教えでは、仏教徒になるということは 戒 を守るだけでなく、菩薩として、世の中の生きとし生ける者すべてのために行動するということが求められる。これが誓願である。 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) The many beings are numberless, I vow to save them. 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん) Greed, hatred, and ignorance rise endlessly, I vow to abandon them. 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく) Dharma gates are countless, I vow to wake to them. 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) Buddha's way is unsurpassed, I vow to embody it fully. 目標はあまりにも広く、とても達成できそうもない。それでもこれらを目指して毎日行動するということが必要だと言っている。広い海原を唯一人で泳いでいるようなものである。見えるものは果てしなく続く海と空、下を見ても深い海、そこを一人でただただ泳いで行く。パニックにならずくじけずに、ただただ泳ぎ続ける。それが仏道修行のようである。 禅宗では、修行者の象徴として文殊菩薩を禅堂の中心に配置している。文殊菩薩は獅子の背に乗り、煩悩や無明を断ち切る智慧の刀を持っている形をとることが多い。獅子は、心または頭の考え(mind)を表す。獅子の背に乗る文殊菩薩は、この荒ぶる心や考えを智慧の力でおとなしくさせている...

ご利益(りやく) Miracles in Buddhism

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虚空蔵菩薩 20数年前、ミネソタ禅センターの片桐大行老師が一時帰国し日本各地の修行僧堂や寺院を訪問した際に、カバン持ちとして同行させてもらった。聖護寺、瑞応寺、永平寺等の専門僧堂を持つ大寺院や、片桐老師が修行されたという小浜の小さな小さな寺を訪れた。ミネソタで学んできた「アメリカ」仏教の教えや修行と日本の寺院でのそれとのギャップがとても大きくショックを受けた。 しかし一番印象深かったのは、禅僧侶の修行や寺の大きさではなく、寺院を訪ねる信者の熱心さである。当時訪問した寺院の一つでは、智恵の利益をもたらすという虚空蔵菩薩を祀っており、そのために障害を持つ子供を連れた多くの母親が集まっていた。どういう仕組みなのかは覚えていないが、障害を持つ子供連れの母親は、本堂での読経が終わるや否や、少し離れた丘の上に建てられたお堂まで競争するように走り、お参りするのであった。お経を大きな声で読み、子供連れで坂を駆け上がる母親達。その姿を見てただただ感動したのを覚えている。 人は皆幸せになりたいと願うが現実は厳しい。その願いに答えて宗教がある。虚空蔵菩薩への深い信仰がその母親たちが望む利益を与えられるのかは分からない。しかし障害を持った親子に奇跡が起こる可能性はゼロではない。強い信仰心をもって修行する人々の多くが、一日でも早く安らいを得てほしいと心から願う。 "There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The other is as though everything is a miracle." --Albert Einstein 「人生の生き方は二つだけだ。一つは奇跡などないとする生き方。もう一つは全てが奇跡だとする生き方である。」--アルバート・アインシュタイン

仏教とは何か / To avoid all evil, to cultivate good

諸悪莫作(しょあくまくさ) ― もろもろの悪を作すこと莫く 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) ― もろもろの善を行い 自浄其意(じじょうごい) ― 自ら其の意(こころ)を浄くす 是諸仏教(ぜしょぶつきょう) ― 是がもろもろの仏の教えなり To avoid all evil,  to cultivate good, and  to cleanse one's mind this is the teaching of the Buddhas. これは七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)というもので、 『法句経』のThe Buddha の183に収録されているものです。唐の白居易が道林和尚に「仏教の真髄とは何か」と問うたところ、この偈の前半を示され、白居易が「こんなことは3歳の子供でもわかるではないか!」といったが、道林和尚に「3歳の子供でもわかるが、80歳の老人でもできないだろう」とたしなめられ、謝ったという逸話が有名です。( Wikipedia 七仏通誡偈 ) ただ良く考えてみると上記のような教えは仏教に限ったものではありません。他の宗派も同様な教えがあるはずです。人間は元々「良いことをしたい、悪いことはしないほうが良い」というのがより一般的であるように思われます。ただ日常生活は複雑で多くの要因が重なり、各時点で何が善なのか悪なのかがわからなかったり、また自身が善と分かっていることができず、自身が悪と思っていることをしてしまう、ということに問題があるのではないでしょうか。例えば、電車で席を譲るとか、嫉妬や怒りのために嘘をついたりするなど。まさしく「3歳の子供でもわかるが、80歳の老人でもできない」ことなのです。(もちろん宗教、宗派、指導者毎に善悪、心の浄くする方法の解釈が変わっていくという問題までありますが。。。) この「仏の教え」をどのように実現していくかについては、次回に。