われは菩薩たり / I am a Bodhisattva

文殊菩薩 / Manjusuri

  • 我は菩薩たり。衆生のために益利(えきり)せんと欲す。(大智度論巻十四)

内山興正老師はその著作「進みと安らい」で、この生き方こそが人生の方向とすべきものだとしている。この「願生の菩薩」としての生き方(Living in Vows) が仏教徒の目指す方向であり、この生き方の中にのみ「進みと安らい」が得られると述べている。

ここで菩薩(Bodhisattva)とは、観世音菩薩、文殊菩薩、地蔵菩薩等だけを指すのではなく、元来、大いなる慈悲心に導かれて、世の中全てのもののために仏道を成就しようとする全ての修行者を指す。特に大乗仏教の教えでは、仏教徒になるということはを守るだけでなく、菩薩として、世の中の生きとし生ける者すべてのために行動するということが求められる。これが誓願である。

  • 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) The many beings are numberless, I vow to save them.
  • 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん) Greed, hatred, and ignorance rise endlessly, I vow to abandon them.
  • 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく) Dharma gates are countless, I vow to wake to them.
  • 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) Buddha's way is unsurpassed, I vow to embody it fully.
目標はあまりにも広く、とても達成できそうもない。それでもこれらを目指して毎日行動するということが必要だと言っている。広い海原を唯一人で泳いでいるようなものである。見えるものは果てしなく続く海と空、下を見ても深い海、そこを一人でただただ泳いで行く。パニックにならずくじけずに、ただただ泳ぎ続ける。それが仏道修行のようである。

禅宗では、修行者の象徴として文殊菩薩を禅堂の中心に配置している。文殊菩薩は獅子の背に乗り、煩悩や無明を断ち切る智慧の刀を持っている形をとることが多い。獅子は、心または頭の考え(mind)を表す。獅子の背に乗る文殊菩薩は、この荒ぶる心や考えを智慧の力でおとなしくさせている様を示している。


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