瑞岳院への山道から見えた富士山
森山老師の法話、第3弾です。
森山老師のお話:
「坐禅の深さに関する尺度はいろいろあるが、私自身が個人的に感じた時間に関する観点から考えると、坐禅の深さには5つのレベルがある。
坐禅をしていても妄想ばかり 坐禅をしている時間が短く感じられるレベル 坐禅をしている時間が深く長く感じられるレベル 時間の経過を感じなくなるレベル 時間を自在に作り出すことができるレベル」 また、参禅者から「坐禅の深いレベルに達するためには、どのような修行が必要なのでしょうか?また、どれぐらいの期間、修行すればよいのでしょうか?」との質問に対して森山老師は答えました。
「個人の資質によります。すぐに深いレベルに達成できる人もいれば、深いレベルになかなか到達できない人もいます。でも心配はありません。私も修行して深いレベルに達成できたのですから、皆さんも必ずできるはずです。」 とはいっても、参禅者としては、自分の坐禅が現在どのレベルであって気に病む必要は全くありません。曹洞宗では坐禅を強調するため、坐禅の出来不出来や覚りを得られるかが気になるかもしれませんが、そのような目標に至ることが本質ではないのです。普勧坐禅儀で道元禅師は
「いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。」 と述べています。道元禅師の勧める坐禅は、仏法修行の一部分として行う坐禅ではありません。その坐禅の中に仏法のすべてがあるのです。橋本恵光老師はその著作「普勧坐禅儀の話」の中で、このような坐禅のことを、以下のように述べています。
習禅にあらざる坐禅は、初発心より有所得の心を一切もちいず、力を尽くして専一に打坐し、仏に至っても、いよいよ常精進の一路を無限に歩む法である」 坐禅に関して、最終目標とすべき「静的」状態があるのではありません。大事なのは、「動的に」(一瞬一瞬において)体と息と心を調整するという作業(調身 (端坐)、調息、調心(至心))そのものです。坐禅の作法は普勧坐禅儀に説明されていますが、具体的・詳細な点については森山老師あるいは指導者とよくよ く納得するまで相談すべきです。世の中には、念息、数息観、内観、止観行(サマタ瞑想とビパッサナー瞑想)、マインドフル瞑想等、宗教・宗派・指導者に よっては様々な瞑想法があります。その修行者にとって、その時点で、どのような坐禅をすべきかというのは、しっかりと覚りを得た真の指導者だけが指導でき るのです。
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