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11月, 2010の投稿を表示しています

Depth of Zazen

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Statue of Avalokitesvara ( bodhisattva of mercy and salvation) in a road to Zuigakuin This is the third part of Moriyama Roshi’s Dharma Talk. In the talk, Moriyama Roshi said: “Various scales are used to measure the depth of Zazen, the sitting meditation. There are five levels in the depth of Zazen in considering a factor of time which I personally experienced during Zazen. Level 1: your thought is filled with delusions. Level 2: you feel the time passes faster than usual Level 3: you feel the time passes slower than usual Level 4: you feel no passage of time Level 5: you can control the passage of time in yourself” One practitioner asked Roshi, “To reach the higher level of Zazen, what kind of practice I should do and how long I should continue such practice?” Roshi answered as follows: “It depends on an individual characteristic. Some person may quickly reach to the deeper level, and some person may take much longer time than others. However, you should never worry about such things.

坐禅の深さ / Depth of Meditation

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瑞岳院への山道から見えた富士山 森山老師の法話、第3弾です。 森山老師のお話: 「坐禅の深さに関する尺度はいろいろあるが、私自身が個人的に感じた時間に関する観点から考えると、坐禅の深さには5つのレベルがある。 坐禅をしていても妄想ばかり 坐禅をしている時間が短く感じられるレベル 坐禅をしている時間が深く長く感じられるレベル 時間の経過を感じなくなるレベル 時間を自在に作り出すことができるレベル」 また、参禅者から「坐禅の深いレベルに達するためには、どのような修行が必要なのでしょうか?また、どれぐらいの期間、修行すればよいのでしょうか?」との質問に対して森山老師は答えました。 「個人の資質によります。すぐに深いレベルに達成できる人もいれば、深いレベルになかなか到達できない人もいます。でも心配はありません。私も修行して深いレベルに達成できたのですから、皆さんも必ずできるはずです。」 とはいっても、参禅者としては、自分の坐禅が現在どのレベルであって気に病む必要は全くありません。曹洞宗では坐禅を強調するため、坐禅の出来不出来や覚りを得られるかが気になるかもしれませんが、そのような目標に至ることが本質ではないのです。普勧坐禅儀で道元禅師は  「いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。」  と述べています。道元禅師の勧める坐禅は、仏法修行の一部分として行う坐禅ではありません。その坐禅の中に仏法のすべてがあるのです。橋本恵光老師はその著作「普勧坐禅儀の話」の中で、このような坐禅のことを、以下のように述べています。 習禅にあらざる坐禅は、初発心より有所得の心を一切もちいず、力を尽くして専一に打坐し、仏に至っても、いよいよ常精進の一路を無限に歩む法である」 坐禅に関して、最終目標とすべき「静的」状態があるのではありません。大事なのは、「動的に」(一瞬一瞬において)体と息と心を調整するという作業(調身 (端坐)、調息、調心(至心))そのものです。坐禅の作法は普勧坐禅儀に説明されていますが、具体的・詳細な点については森山老師あるいは指導者とよくよ く納得するまで相談すべきです。世の中には、念息、数息観、内観、止観行(サマタ瞑想とビパッサナー瞑想)、マインドフル瞑想等、宗教・宗派・指導者に よっては様々な瞑想法があります。その修行者にとって、その時点で、どのような坐禅をすべ

われは菩薩たり / I am a Bodhisattva

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文殊菩薩 / Manjusuri 我は菩薩たり。衆生のために益利(えきり)せんと欲す。(大智度論巻十四) 内山興正老師はその著作「進みと安らい」で、この生き方こそが人生の方向とすべきものだとしている。この「願生の菩薩」としての生き方(Living in Vows) が仏教徒の目指す方向であり、この生き方の中にのみ「進みと安らい」が得られると述べている。 ここで菩薩(Bodhisattva)とは、観世音菩薩、文殊菩薩、地蔵菩薩等だけを指すのではなく、元来、大いなる慈悲心に導かれて、世の中全てのもののために仏道を成就しようとする全ての修行者を指す。特に大乗仏教の教えでは、仏教徒になるということは 戒 を守るだけでなく、菩薩として、世の中の生きとし生ける者すべてのために行動するということが求められる。これが誓願である。 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) The many beings are numberless, I vow to save them. 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん) Greed, hatred, and ignorance rise endlessly, I vow to abandon them. 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく) Dharma gates are countless, I vow to wake to them. 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) Buddha's way is unsurpassed, I vow to embody it fully. 目標はあまりにも広く、とても達成できそうもない。それでもこれらを目指して毎日行動するということが必要だと言っている。広い海原を唯一人で泳いでいるようなものである。見えるものは果てしなく続く海と空、下を見ても深い海、そこを一人でただただ泳いで行く。パニックにならずくじけずに、ただただ泳ぎ続ける。それが仏道修行のようである。 禅宗では、修行者の象徴として文殊菩薩を禅堂の中心に配置している。文殊菩薩は獅子の背に乗り、煩悩や無明を断ち切る智慧の刀を持っている形をとることが多い。獅子は、心または頭の考え(mind)を表す。獅子の背に乗る文殊菩薩は、この荒ぶる心や考えを智慧の力でおとなしくさせている