無常迅速
アメリカ龍門寺住職
ワインコフ彰顕
「生死事大、無常迅速」と言われますが、現実とならない限り私たちは信じようとしません。
2012年4月4日、ショーシン・ボブ・ケリー和尚が亡くなりました。87歳でした。体力が尽きてしまったようです。彼は龍門寺設立メンバーの一人で、亡くなる1週間前に話したばかりでした。この知らせが来るのは分かっていましたが、彼の死を告げる電話を受けたとき、なかなか受け入れることができませんでした。空に光る雷のように、世の中はあっという間に変わってしまうものです。
龍門寺開山当初、敷地に建物は何もありませんでした。「空き缶に寝る」と言ってショーシンさんが小さなキャンピングトレーラーに寝泊まりしていた日々を思い出します。建物の工事が始った頃、ショーシンさんは本堂の床張り工事の手伝いで、電動のこぎりを使い樫の板を切っていたのですが、誤って小指の一部を切り落としたということもありました。仏像を彫り本堂の幕を作ってくれたのもショーシンさんです。新設した僧堂の文殊菩薩もそうです。
人生はあっという間に過ぎ去ってしまいます。ダライラマは「皆、死が生の一部だと知っているが、それに対して誰も準備はできない。」と言っていました。身近な人が亡くなったとき「無常」が現実となります。それに捉われずにいるのは簡単なことではありません。
人生について、各自それぞれの思いを持っています。何がほしいかほしくないか。物事がどの程度の速さで、どれだけ続くのか、それがどれだけ大事で、自分がどの程度耐えられるか等々。しかし、私たちのこんな思いを超え、この世はそれ自体の流れに従い進んでいきます。それ独自のリズムがあるのです。始まりのない過去から終わりのない未来へ向かう流れです。人生(個人のいのち)はこの流れの中で起こる、つかの間の現象なのです。
「生死の中に佛あれば、生死なし(定山和尚、805-881)」と言われます。「生死の中に佛なければ、生死にまどはず(夾山和尚、771-853)」とも言われます。
この「生(いのち)」は「私の」いのちではありません。私たちみんなのいのちは、始まりのない過去と終わりのない未来が具現化したものです。ある意味「生も無く、死も無い」とも言えます。道元禅師(13世紀)は「ただ生死すなわち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて、生死をはなるる分あり。(正法眼蔵生死の巻)」と言われました。
では私たちに何ができるのでしょう。片桐老師は「生死の瞬間は私たちの考えを超えたところにある。自分自身が死と向き合う場面になったとき、私たちにできるのは一番最初の瞬間に戻ることだけだ」と言われました。この最初の瞬間とは、自分がどれだけ生きられるか、どのような死に方をするのか、その次に何が起きるか等の思いを超えた、その瞬間そのものです。
だから道元禅師は「生というときには、生よりほかにものなく滅というときは、滅のほかにものなし。かるがゆえに、生きたらば、ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとうことなかれ、ねがふことなかれ。」と言われたのです。
ショーシン・ボブ・ケリー和尚の死そのものが彼の最後の教え、無常迅速、です。
それでも、花が散るのを見るのはつらいものです。
それでも、花が散るのを見るのはつらいものです。
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